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コラム

複層的な問題を分解して対処しよう
相模原事件から私たちがやるべきこと(1)

重大事件の風化

 神奈川県相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者19人が元職員によって殺害された事件は、瞬間的に事件の詳細として凄惨なディテールが社会に波状的に知らされ、そして波が引いていくように一般から忘れ去られていっている。事件の重大さは、被害者の数の多さでもあるが、加害者と被害者が「知的障害者」「精神疾患者」でもあることからも公に議論すべき問題を含んでいるのだと思うのだが、事の重大さとは関係ないように、社会は風化に向けて突き進んでいる印象がある。

事件を受けたメディア報道やソーシャルメディアの情報で、社会はどれだけ重度の知的障がい者の置かれた境遇や家族の苦悩、そして精神疾患者に関わる社会の対応について、知ることができたのだろうか。「知的障害者」も「精神疾患者」も、報道する側が絶対的に当事者に近づけないジレンマを持ちつつ、大手メディアが本質をとらえきれていないようで、社会が議論するべき問題の基本となる判断材料が乏しいまま、事件が忘れ去られる状況が怖い。

 これには、知的障害、精神疾患など問題が複層的だから、メディアが一括した処理ができず、取材する能力や当事者に肉薄しようとする意気込みが乏しいことや、問題の複雑化を避ける結果、メディア発信と、物事の単純化を求めてしまう受け手側により、加害者だけに責任を押し付けるための「極悪な犯人像」が作られてしまって「処理」されてしまいそうである。

複層化を丁寧に

事件が忘れ去られていくこれからの時期、複層的な問題を分解し、冷静になって検証をする社会的機能を私たちの社会は持たなければならない。社会全般から見れば、当事者に近い立場にいる私は、その役割を持っているのでは、との責任感も感じている。

メディアが当事者に近づけないのは、「ニュース」を扱うのを一義的な役割だと考えて、問題の発生地点を定点観測し、問題の真相に迫ろうとする組織としての気概、記者個人としての意気込みも昨今では感じられなくなってしまっているからだろう。

それでも、この現象に問題意識を持っている人は少なくない。だから、ここで問題を分解しながら、「つながる」ことを考えて、小さな声を挙げなければいけないのだと思う。

さて、この複層化の第一の層は、知的障害と精神疾患。被害者と加害者である。ここに社会の戸惑いがあると考えられる。まったく個人的な感触だが、視点を一般化していくと、「知的障害」と「精神障害」の違いについて、明確に答えを持っている人はそんなに多くはない。

社会全体や企業やメディアが普通に、それら障害者を受け入れてきていれば、理解は進み、違いについても一般常識化したはずだが、われわれはそれをして来なかったのである。象徴的なのは、見た目が一般的な精神障害者を見て、「なぜ、普通のことができないのか」と問う人たちは実に多い。「なぜ」の問いの多さは、そのまま、「理由が分からない」ことであり、誰もその理由を説明し、啓もうすることをしてこなかった。

最近では、発達障害、パニック障害、学習障害など細分化された症状により、部分的にあてあまる人が増えることで、当事者が自然と増加したものの、精神疾患について世の中に取り上げられるのは、精神的に自制が利かなくなった末に殺傷事件を起こした加害者についてで、そのインパクトは強い。通院事実の有無は別として精神鑑定がクローズアップされた事件では、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(1988-89年)、大阪の付属池田小事件(2001年)、秋葉原通り魔事件(2008年)など、それらはいつでもネガティブだ

専門家でよいのか

 これらの事件でも、そしておそらく相模原事件でも、精神鑑定がクローズアップされるだろうが、その判断は専門家に委ねられている。精神疾患者に関する症状は、私も医師と協議する経験を重ねる中で、判断の難しさを感じている。

就労のタイミングや入院・退院の判断、有効なコミュニケーションや関わり方など、判断を間違うと致命的な結果にもなりかねない。誰ひとり同じではないから、医師の苦悩もわかるし、私も支援者として常に手探りの中にある。

この現場感覚からすれば、司法段階で「裁く」ために、責任能力の有無を精神鑑定から導く作業は単調的な気がする。鑑定は罪を決定するのを目的化し、加害者自身の責任を問うだけで、社会が事件にどのような影響を与え、そして引き受けるべき責任があるのかを問わないままになってしまっている気がしてならない。

この過程の中で司法という隔絶された領域の中で、医師という専門家が行う鑑定により、何らかの結果が導かれることは、プロセスの密接化を助長してしまい、市民が入り込む余地はない。医師の見地は重要なポイントであるのは確かだが、精神疾患の疑いのある人の罪をどう考えるかの議論に向けて、マスコミや社会コミュニティが機能しないのは、この密接化が常態化した全体構造に問題がある。

心は社会のファクト

 例えば秋葉原事件で7人を死亡させ、10人を負傷させた加害者は、仕事を転々として自暴自棄になった末に、計画的に凶器としてナイフを購入し、レンタカーでトラックを借りた上で凶行に及んでおり、「完全な責任能力」が認められた。

職場でのトラブルを重ねてきたことや、インターネットの掲示板で、ネット上でキャラクターを確立していたものの、成りすましなどで、自分の掲示板が荒らされたことなどの不満が蓄積していったようだが、それは極めて個人の事情でその結果の犯行は身勝手である、という結論が導かれ、結果として加害者個人の極悪さだけが取り残された。

この加害者が殺人者になるまでの間には、いくつかのキーワードがあるが、生きがいを見出せず、労働者として「貧困」から抜け出せない憤りも強かったという。それは社会の一部であるから、われわれとつながっている。思い出してほしい。先程提示した東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件、付属池田小事件の加害者が、どのような境遇にあって犯行に走り、精神状態がどのように判断され、司法は量刑をどのような根拠で判断したのか。その過程で市民は何を知りえたのか、そして知りえなかったのか。

残念ながら、精神的な異常状態と犯罪の関係について、議論は進まないまま、時が過ぎた。精神疾患者向けの施設を運営する身としても、世の中の認識は進化しているとは思えない。権力がコントロールしやすい方法での措置としての制度は整備されるかもしれないが、人の再生を信じての更生の観点からの議論は甚だ不足している。事が密接化すれば議論は内向きになることは避けられない。だから、裁判員制度、取調べの可視化などの方向とともにオープンであることも必要条件となろう。

相模原事件では、この繰り返しにならないように、複層的な論点の一角として、加害者の精神疾患の鑑定を、判断の単純化だけを導く理由にしてはならないと思う。加害者が殺人者に至る心の問題を、罪や量刑とは別に向き合うべきである。心の問題は社会を形成する中心、ファクトである。この認識に立って、加害と量刑の議論をオープンに始めたい。

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