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コラム

「つながる」から始まるという意識
震災から生まれた「生きる」ための一歩

それぞれのつながり

「つながる」ということを強く意識し始めたのは2011年3月の東日本大震災からである。恋人、家族、仲間、という既存のつながりから領域を拡大しての、他人同士の「つながり」が、多くの人を救える、社会の重要なキーワードであると考え、震災以降、私の活動のキーフレーズともなっている。

東日本大震災から3ヵ月後、ベネッセ教育総合研究所が運営する「チャイルド・リサーチ・ネット」で私は被災地の最前線で支援活動しながら「個々のつながりを目指して」という論考を示した。ベネッセからの依頼のため子どもの問題を意識した内容だったが、論考で提示した社会構築は道半ばである。以下は原稿の一部である。

1995年の阪神淡路大震災では、問題がないと思われる所謂「おりこうさん」の子どもが10年後に外傷性ストレス障害(PTSD)を突然発症した例もある。身の回りの子どもが、「おりこうさん」でも、ある日突然PTSDの症状が出てくる可能性があり、「その時」がいつかは分からない。私はその分野の専門家ではないが、言えることは、「その時」まで、大人たちは、発症した子どもたちを受け止める準備をしなければならない、という発想で精神を支え合う社会を再構築しなければならない、ということである。(チャイルド・リサーチ・ネット、2011年6月17日)

 震災から5年以上が経過して、その時はすでに訪れているかもしれないし、過ぎ去ったかもしれないが、福島の原発事故の被災者や避難者の子どもたちはまだまだ不安は続く。その不安への想像力は社会が持ち続けなければならない。その持続が包容力となって、社会の安全保障になるのだが、世の中は忘却の方向へまっしぐら。被災地のそれらは「関係ない」出来事ではなく、「被災者とどこかでつながっている」という意識ひとつで見えるものは変わってくる。思いは寄せられるのではないかと思う。

 埼玉県の日本基督教団所属の教会が集まり9月に開催する精神障がい者と教会関係者のための会合「アーモンドの会」(会場:埼玉和光教会)で筆者が基調講演をすることになり、テーマ設定を協議したところ、主催者側は、私が施設長を務めるシャローム所沢のリーフレットのキャッチコピー「つながる、から始まる」を指し示しながら、「これしましょう!」と声を張り上げた。枕詞には「教会と地域福祉」でおさまったが、「つながり」が教会のテーマでもあることを周辺に問いかけたい、という

教会が救いを求めて精神疾患者らが拠り所となってきた歴史は長いが、その疾患者を精神的だけではなく、社会的にも救うには、教会だけでは対応しきれない。地域や他者との「つながり」が課題なのである。

教会だけではない。関係性の中で生かし、生かされている私たちは「つながる」ことを常に求めている。さて、そのつながりって何だろう。

体を震わせ受け止める

 私が就労移行支援事業所や教育機関でコミュニケーション講座を行う際、前提として話すのは、「なぜコミュニケーションをするのか」という問いと答えである。同時に、対極に位置するものとして究極なディスコミュニケーショの状態は何かという問いも考えてみる。この答えは、コミュニケーションの断絶であり、他者との交わりの拒絶であり、生の否定であり、究極には、自殺であると規定する。

 私の仕事に関係する人でも、相談に来る人でも、常に自殺願望に取りつかれてしまう人もいれば、うっすらとした願望のまま、ふらっと「死にそうだ」と思ってしまう人もいる。「死」が意識下に上ってくるその度に、私は強烈に「つながり」を意識させようと言葉を選ぶ。ここに、今、あなたがいて、僕がいる、と。その言葉は人間関係に地脈を流し込み、精気を通わせるのに似ている。この言葉に反応する人は、体を震わせて全身でそれを受け取ろうとする。私はそれを「つながった」瞬間だと考えている。

 精神疾患者かどうかに関係なく、不意に「死」への願望はやってくる。社会的な絶望に心砕かれる瞬間も、自分を消したいという魔が差し込んでくる。そんな光景を被災地でも幾度となく見てきた。

被災地の知的障がい児

東日本大震災の被災地で私は、分断されている箇所への支援として「小さな避難所と集落をまわるボランティア」と題した活動を行った。特にアクセス不便な僻地の被災者のうち、知的障がい児童への支援が放置されていることを問題視し、宮城県気仙沼市本吉地区の障がい児の母親たちへの支援をはじめた。

この地区の複数の母子家庭の障がい児が突然、昼夜を問わず暴れ出し、繰り返される兄弟や母への暴力に母親は疲労困憊していた。暴れ出すこととPTSDの因果関係は解明されていないものの、この事実を世に広く知らせ、然るべき「つながり」を持たなければ、母親たちの絶望は続く。つながりを求めて、私は在京のテレビ局に呼びかけ、自らも震災の風化を防止するための歌曲「気仙沼線」のCD中のブックレットに実態をルポルタージュとして報告した。

結果的にTBSの「報道特集」が半年間の取材後にドキュメンタリー化し、昨春仙台で行われた国連防災世界会議では、この母親たちが震災における知的障が児の実態を発表することになり、問題が国際的に認知されることになった。

 この原点は、つながり、である。まずは被災地で同じように暴れ出す子どもを持つ母親が、助け合おうとつながり、その輪があって、私もそこに加わり、新たなつながりを求めていく。それは、孤独という絶望の対極にある希望という広がりにつながっていく。

私と海は生と死

 現在、就労移行支援事業所の施設長として利用者と接する私は「つながる」事に喜びを感じている。利用者は必ず何かしら悩みを抱えている。病気、家庭、将来、恋人・・・。悩みを共有できることを喜びに感じるには相当に、心がポジティブでなければならないが、支援者としては「つながれば何とかなる」と考えることにしている。

 振り返れば、前述の東日本大震災の風化防止と知的障がい者支援を目的で発表した歌曲「気仙沼線」の歌詞は、震災の聞き取りを詩として再現し、表現したノンフィクションストーリーだが、その中に次の一節がある。

「3月の寒い日でした 子供の姿を探したけれど ただ安らかにと 祈るしかなく

大谷海岸の浜の音 波に遊ぶ子供が消えても 私は海につながっている

家族で乗ったあの列車 思い出遠く夢の中

あの日 波がやってきた つんざくこだまに 光が散った

それでも続く いのちは続く」

 これまで自分の歌詞について、言葉が表現する事実に向き合ってほしいという思いがあり、解説をしたことはなかった。しかし今、5年を過ぎて、振り返ってみると、当時の自然なペンの矛先は「つながり」だったことに気付かされる。

大谷海岸はJR気仙沼線の大谷海岸駅の目の前に広がる海水浴場だが、現在は鉄路の気仙沼線はBRTというバス運行に変わり、沿岸部に住む人はいないから、海水浴場もない。ただ海と仮の防潮用の砂袋が幾重にも積み重なっているだけの海岸に子どもの声は聞こえない。

この歌詞で展開される「私と海」は、子どもを奪われた親の私と、子どもを奪い取っていった海、の関係である。奪うものと奪われるもの。生と死。残酷だが、それはつながっているのである。

雲の切れはし、でも

さらに今年3月にケアメディア推進イメージソングを発表したが、私が歌詞を担当した「春と夏~ウサギとカメ~」の歌詞も末尾で知らぬ間に「つながり」を表現している。

「机の前 布団の中 うずくまってばかりで

波打ち際 野道の陰 立ちすくんでばかりで

空 空 そっと君を照らすでしょう

窓の外 つながってく 雲の切れはし

泣きながら 手を伸ばし 君は立ち上がる

巡り会う うららかな 次の季節に 今 僕は君を想う

今 君は明日を想う」

 一人ぼっちの孤独はつらい。孤独は人を消すかもしれない。だから、つながれる何かを、「雲の切れはし」でもいい。自然の中や目の前のものからつながりを連想できれば、きっと生きられる。

(了)

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